昭和51年1月26日 朝の御理解


 御理解第19節 金光大神は形がのうなったら、来てくれと言う所へ行ってやる。

 金光大神を私共が唱えるところに金光大神お取次ぎの働きというものが頂けれる。そこで、金光大神が来てくださるというか、金光大神がお取次ぎを下さるというか、だから、どのような、事、どのような風にお取次ぎを願った一番金光大神も喜んで下さり、また私共も助かり、天金之神様も喜んで下さる願いをしなければいわば馬鹿らしいわけです。ただ自分の我情我欲のことだけを頼むと、いったようなことではなしにいわゆる肝心要のところをいつも願い続けるというようなお取次ぎを頂くというようなおかげを頂かなければいけません。
 私は、生神金光大神とは天地金乃神と同梱と教えて下さるのですけれども、例えばか達が無くなったら来てくれというところにいってやると仰せられるところ、そこのところが私は天地金乃神と同根でおありになるのだなあとおもいます。ね。生神金光大神を唱えるところに生神金光大神のお取次ぎの働きが頂けれると。だから天地金乃神と唱えても天地金乃神はきてくれと言わんでもいつもで私共の心の中にも奥底にもいうならば、その天地金乃神様のご恩恵の中に浸っておるようなものですから、けれども金光大神のお取次ぎを頂かなければならないというところに金光大神が魂の世界で自由無碍のお働きだとか、いうならどこへででもお取次ぎの働きをしてくださる、それはとこのなかで生神金光大神を唱えても、床の中に来てくださる、便所の中で唱えても風呂の中で唱えても生神金光大神がそこに来てくださる働き。しかもお取次ぎをしてくださる働き。ね。だからおかげは天地金乃神様のおかげを受けることになるのですから、そんなに取次ぎというか面倒なことも直接天地金乃神様からおかげを頂いてもよくはないかと思うのですけれどもそこがやはり生神金光大神のいうならば、御神徳によらなければいけないという事。
 それは丁度、銀行でお金を借りるようなもので、ね、こちらにおとくがあれば別ですけれどもお徳もなにもないような直接なら銀行に行っていくらいくら貸してくれというても貸してもらえないように、かしてもらえないのは山々だろうけれどもそれでは、ね、家してもらえない。そこで絶対のまあ、保証人なら保証人と言う事に、があれば、その保証人に対して貸してもらえれるような通りのものであろうとおもうです。ね。ですから、金光大神の天地金乃神様からお受けになっておられる絶対のそのご信用にお縋りをしておかげを頂くということになる。だから生神金光大神様はいつも私共が願うところに来てお取次ぎをしてくださるわけです。そこで私達が願わねばならぬことはまあ、いくらも沢山あるのですけれども、身の上安全を願い、家業を出精、五穀成就、牛馬に至るまで、氏子身の上の事に至ることなんなりとも実意を持って願えとおおせられるように、金光大神にもただいきなり頼んだというのではいけない。
 いつも実意を持って金光大神のお取次ぎを頂かなければならないというところにです、ね、お道の信心があるのです。そこでです、実意をもって一心に願うとか頼むとかです、ね、どういう事かというとです、なってまいります。そこを分からせて頂くという事を金光大神に願うという事が根本にならなければいけないと思います。信心が分かるとか信心によって力を受ける徳を受けるというけれどもそこのところの根本が分かってからの金光大神でなからなければならない。だからそこを、お取次ぎ頂いていくのです。ね。どうぞ真の信心をさせて下さいとか、今日の成り行きをいよいよ大切にさせて下さいとかというようないわば願いをさせて頂くという事なんですけれども、その真のなら信心をさせて下さいと言うためにはいよいよ、成り行きを尊ばせて頂くことの為にはです、なぜ、成り行きを尊ばなければならないのか、なぜ真の信心でなからなければならないのかと言う事を私共がまず分からなければいけんという事でございます。昨日は、私、あれは朝のうちだったでしょうか。ここを下がってから、松下幸之助さんですかね、と、あの、俳優の森重久弥さんの対談があっておりました。中中1代であれだけのことを築きあげたかたですから、いわれることが中々ね、やはり素晴らしい事をいわれます。森繁久弥さんが質問をする。それに対して色々と答えられる。大体人間の幸福ということはどういうような風にお考えになりますかというようなね、まあ色々しておりました。しかしなるほどだと私思ったけれども、信心がないならやはりそうだろうなと私も思ったんです。幸福というのはね、自分で幸福だと思うのでは幸福ではないのです。
 人がみて、いや、あの人は幸福だなというところに人間の幸福があるのだといっております。そうかもしれませんよね.私がどんなに、なら、幸福だというてもです、はあ、とても周囲のものが見てです、朝の三時半から起きて、晩の十二時までも起きておらにゃあ、そして、ずっと座っておらにゃあ、とても、あげなことはいっちょ幸福じゃなかと信心の無い人は思うかもしれませんよね。かというてなら、信心の無い人達のそういう言葉のなかにです、なるほどと合点をさせてもらうのですけれども、なるほど、人がみてあの人こそ、幸福であろうというようないうなら条件が様々に足ろうておるかに見えてもなら、本人自身は不平であり、不足であり、ね、幸福という事を考えきっていなかったら、そりゃ幸福ではないことになりますからね。まあどっちが本当かも分かりませんけれども、信心をさせて頂くものは何と言うても自分の心の中にやはり幸福を感じ切れるいうならば不平不足をいわんですむ、まあいうならば腹を立てんですむおかげを頂いてこそ、始めて幸福ということがいえる。また同じに信心によってそういう修行が出来た時にです、人間の幸福の条件が足ろうてくるということを松下さんは知っておられない。やはり幸福の条件というものは、人間が一生懸命頭を使い体を使いして、ね、やり方がようなからなければ幸福の条件と言うのは足ろ輪無いと言うことが感じる。という事だけしか知っていないと言う事になる。
 またこういう感心したことを言っておられました。若い時にその浪花節を聞いたと。そして、紺屋孝雄というあれを聞いてあの、まあその、儲けだした、違うと思いましたよ。見所聞きところが違いましたよ。どういうところに感心したかというと始めて紺屋孝雄という綺麗な人にあってからです、自分も男として生まれたなら、一遍くらいああいうようなよか女子を抱いてみたいと思うたとか。ね。しかし、それも金さえ持っていけば夢ではないぞと聞かされて三年間一生懸命に始末倹約をして働いたと。そこんところを聞いた時にね、こりゃとても俺よりも偉いと思うたち。自分が好きな事のために3年間たとえばその事のために働ける人間がおるだろうかという話をしたのでありました。 
 私それを聞かせて頂いて私自身のことを思うたです。はあ、松下さんが本当に素晴らしいといっておられることを私は終戦そして引き上げて帰って参りまして親教会の四十年の記念祭を迎えるにあたって、その、1年前にどう言う風にしてお祭りをつかえるかと言う事の会議がございました。その時に私が芯から思うたことをはです、私の働きの上にです、ね、まあ、いくら頂けれる分からんですけれども最低の生活だけはお許しを頂いてそのよぶんの一切を四十年の記念祭にあてようと決心したことをはっと思うてほうこりゃ大変なんコトだったなあと思うのです。紺屋孝雄じゃないばってん私も三年間じゃないけれどもね、1年間ではあるけれども、それを本当に思うたという事です。しかもそのよか女子を抱くとかなんとかということではなくてね、私の場合は自分の親教会である、親教会の四十年の記念祭にそれを書けたという本当にそれを思うて実行したと言うことがです、私は改めて素晴らしい事であったなあと思わせて頂く。
 私は色々そのことからまあ思わせて頂いたのですけれども、依然私は沢山のタバコを吸っておりました。もうあの、かん入り一館では足らない時もあるくらいにすってましたのを、すっきり止めてしまいました。ところがこの頃からどうしたはずみかまたタバコを頂きました。お酒の時やら飯の後やら、頂く。して二本が三本と頂きますからまた、この調子でいきよるとまあ沢山飲むようになるだろうと思いよりましたけれども、私そういうあの、松下さんとあの、森繁さんの話を聞きながらそのことをフッとこう思わせて頂いたのです。本当にタバコくらい百害あって一利無しというものはないだろうと思います。しかも火災の原因が、タバコというのが一番大きいという話です。これはどうでも一つ日本人全部がです、まあせめて、合楽の御信者さん全部がです、タバコをそれこそ、ね、百害あって一利が無いと言うくらいなことですからなら、タバコを飲まん人好かん人というのは、はああれが飲まれんけん、苦しいと言ったことが全然ないのです。ほんにタバコごと飲まれるよかとさぞ、いっちょん思いよらんです。ただタバコを飲む人達がなからなければできんのであってそれを止めさせて頂けばそれこそ莫大なお金になるだろう。お金がたまる事になるだろう。しかも二本人の人がこういうような一つのタバコを止めるという事になったら、第一火事があなた沢山ね、その、火事の原因はタバコが一番多いという事ですからそれだけでも大変なことだと思うのです。ね。だから本当に、(?)と言いながら今私が頂いておるのはあの、峰というタバコですから、百七十円するそうですよ。ね。もうだから私もこれは、切れたら止めよう切れたらやめようと中々切れません。もうこの頃から高くなるというので、大きな箱でいく箱も頂いた。これは、いつのことじゃ分からんというわけですけれども、私はその松下さんの話を聞きながらその思うたんですけれどもこれは一つ、本気でタバコを止めさせていただこう。一利もない、いうなら、百害あっても一利もない。しかもそれがタバコの、が、原因で日本の火事のほとんどをしめておると言うほどしの害が有ることなのですから、これは大変なことであろう。まあ私が子のことを実行して真似する人達が出来てきたらね、と言う風に私は思わせて頂いたのですけれども、今日皆さんに聞いて頂くのは、一つみんなで思い切ってタバコを止めようと言うことではないのです。ね。止めさせてもらおうというその一心をです、私は皆さんに分かって頂きたいのです。ね。それは、もう百円が二百円まあ今の金で言えば対したことではない。家事の原因になったりまたは、体にはあんまりよくない、癌の原因になったり、するからその止めようというのではなくて、それを本当に止めようと決心というか、一心がですあなた方に出来るか出来ないかと言う事なんです。お道の信心は本当な事を一心を立ててそれを貫くということにあると思うのです。
 ね。だから、タバコもやめ切らんという事では一心はとても貫かれないぞというならば、分からせてもろうてです、そして一心を貫かせて頂くという事。しかも絶対のこと間違いのない事をです、タバコいうならばどうでもよいと言う事に致しましても、ね、ここをこう頂かなければ、真の信心を身につけさせて頂く為にはここをこう改めなければとか、こういういき方にならなければとかという事が分かったら、そこに一心を立てると言う事です.腹立てば心の鏡の曇ることと仰せられるのですから、ね、もうほんきで一生涯腹を立てんぞと一心を立てたらどう言う事になるでしょう。私は五つの願いが出されました。体の丈夫を願うことのためにはもう、夜食どんしよったんじゃ出来んと思うて夜食を止めました。家庭の円満、ね、信心は家内に不和の無きがもとなりと仰るのですから信心させて頂くものは家庭に不和のあるようなことでは信心にはならんのだ分からせて頂いたらです、そのことをやはり金光大神のお取次ぎを頂いてどうぞ、家庭円満のおかげを頂かせて下さい、と私はそこを、願うていかなければいけんと思うのです。
 それも願うたところではない、そこに、私は人を責めるようなことでは決してしませんという、いうならば修行をさせてもろうて、家庭円満を願わなければ円満が円満にならないと思うのです。いや、金光大神が喜んで下さる天地金乃神様が喜んで下さる、自分も楽になれれるというようなおかげには繋がらないと思うのです。そこで、私は以来もう、人を責めるという事を決していわないことを決めました。
 おそらく一生涯続けられる事だろうと思います。だからそういう絶対のもの、ね、絶対のおかげに繋がるそういう事をです私は金光大神の来てくれと仰るところには来てくださるのだから、ね、勿論先ほど申しますように、人間のありとあらゆる願い、また、ないものはありませんから、ね、それこそ牛馬の事に至るまで願わなければいけませんけれども、それとても実意を持って願えと仰るのですから、その実意ということがです、ね、私は頂けれることの為に今、一心の真を貫くと言う事。その一心の真をもってです、一切のことがねがえれるところのおかげ、今日を境になら私は一生涯タバコを口にしないでしょう。ね。私は止めることによって金がたまったとか、止める事によって、癌にならないですむというそういう事じゃない。自分の一生を私は思うのです。しかもそれにはそういう例えば火事の原因はなくなるし、癌の原因もなくなるし、というおかげが当然伴うてくるのです。それだけいうならば金もたまるわけです。タバコを止めたけんでいうてからタバコ代が残りはしませんよと絶対ないですよ。
 そういうそれは、やめきらん人が言うのです。なら、毎日百七十円ずつこうやって貯めていきゃいったい。貯めようとせんからたまらん。だからです、例えばなら金がたりんの足らんのと言う人がです、ただそれだけのいうならば、事の為ではなくてその一心を神様が買うてくださるから、おかげになるのです。
 私は今日は大変金光大神が形がなくなったら来てくれというところにいってやるという説明ではなくてです、もう来てくださることは絶対なんだから、来て下さったらそんなら金光大神に、ね、その時、その都度都度にです心の底にいつも願い続けさせて頂くというい事。それは五穀豊穣牛馬に至るまでと言う事ですけれども、実意を持って願えとおおせられるのですから、その実意にならせて頂くための稽古をまずさせて下さい分からせて下さいと言う願いをさせて頂いて始めて金光様の御信心と言う事になるのです。始めて金光様の御信心が分かり、神様も喜んで下さり、私共も幸福の条件の全てを身につけていくほどしの、おかげにもなってくるそういうおかげの頂けれる一つの大本をお取次ぎ願わなければならないと言う事であります。
 森重さんがこんな事もいっておりました。先日、ある有名な寿司屋に参りました。ところがその、親父がほとんど隠居で、その、隠居しておりますから、もう、息子さんが一人で全部やっておる。そこでもう、おやっさん息子がこげんやるから、安心ですねというたらいや安心は出来んと。ね。寿司屋の方は握るようになったけれども、経営者としてはまだまだとこういうておる。それでもこれだけあなた、もう、立派にやっていきよるじゃないですかと。なるほど、職人としては立派ですけれども、経営者としては、まだまだとこういったところがです、経営者というものはお客さんが寿司を食べながらお酒を飲みながらちょっとお手洗いならお手洗いにたった時に、あ、トイレットペーパーあったじゃろうかと先ず思うです。便所の中から出てこなかったら中ではきよんなさることはないじゃろうかと、そんなら後はすぐお掃除をしとかんならんと思う。これが出切るごとならなければ経営者はまだまだ息子には譲られんと言うたという話を息子さんがしておりましたがね、私はこれを聞いて本当にそうだと思いました。ここには沢山の修行生がおりましたが、本当に自分達が布教に出て、自分が教会長になったつもりでの修行が出来なければいつまでたってもやはり、布教にどん出られんだろうと私は思います。
 私は、夜中にいっぺんぐりっと回らせて頂いてさあ、電気を消してまわったり、もう必ず閉めておらんです。どこかに。ね。戸締りが出来ておらん。これは、私は教会長だからそうしなければおられないのです。だから、まだ、何十人の修行生がおりましても、布教に出る資格はなかのとその、森重さんのお話からそう思うです。ね。どんなに、例えばお話は素晴らしいお話をされる、そがしい信心は出来ていきよる。けれどもそれは、寿司屋の職人としては、値打ちがあろうけれども、素晴らしいけれども、経営者としてはゼロだとまだ、寿司屋の親父さんが言うようにです、そこんところに心配りが出切るようにならなければ経営者の値打ちはないといわれたと言う事をね、これは信心の上に思わせて頂いて、そういうような意味においてです、ね、お粗末御無礼のないありかた、経営者としての行き方というものが本当の信心者としての生き方というものがです、ね、そういう心配りが出切るような私に劣り立て下さいと願い、そして、今夜から夜回りのひとつくらいさせてもらおうというような実行が出来てこそ、初めて信心という。そういう事を私は願うならば私は願わなければならないと思います。
                                     どうぞ